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コラム

mash up memo

音楽のマッシュアップが今更ながら面白くてしょうがないのです。

ちょっと昔にニコ動で吉幾三(IKZO)ブームなんかもあったりして、実はそこではじめて「マッシュアップ」という言葉を知ったのだけれど、Youtubeで探してみるとわんさか出てくる。

要は既存の曲のバックトラックとボーカルを組み合わせてまったく別の曲に仕上げてしまうという手法。実際には厳密に曲Aのトラックと曲Bの声、みたいに分けたりせずに、伴奏+伴奏、声+声で組み立てることもあって、そのへんは特に決まりはないみたい。

Wikipediaで引いてみると、歴史や他のコラージュされた音楽との分類も知ることができて、この記事だけでもけっこう面白い。

Wikipedia-マッシュアップ

多くのポピュラー音楽が「音階」という縦のグリッドと「bpm/リズム」っていう時間軸上の横のグリッドで成り立っている以上、そのグリッドの埋められたマス目をいくらか共有していれば、極端な話、どんな曲を組み合わせても自然に聴こえてしまうという、実は音楽にのみ可能な表現だったりする。

その中でもやっぱり合わせやすい曲の種類はあって、コードが少ない曲は展開が激変しないので重宝されるし、音階が厳密でないヒップホップ/ラップは適応力が無限大。あとは誰でも知っているメロディー、リフレインを持った「超名曲」は使うと存在感が半端ない。

マッシュアップの面白さは、普通に考えたら絶対に合わなさそうなもの、まったく異なる文化的背景を持ったものが、音階とリズムのグリッドが重なるとなぜか合ってしまうという意外性や、

ありえない豪華なコラボレーションを擬似的に作れてしまうというところにあると思う。

こういった曲を巡りつつのひとりパーティも楽しいのだけど、曲+曲のマッシュアップでは収まらないマッシュアップがあったりする。


曲+曲ではなくて、曲+映像、曲+言葉でもマッシュアップが成立する。どっちもモンタージュ論の進化形みたいでものすごく面白い。特にナショナルのCMのほうは音楽を変えると雰囲気がこうも変わるという実験そのもの。

ここまでくると、もはや曲のシンクロ感が気持ちいいマッシュアップの領域には収まらず、もっと複雑な意味合い生み出す行為になっちゃっている気がする。

音楽と映像や言葉のマッシュアップについては、掘り返したらまだまだ楽しいものがわんさか出てきそうなので、そのへんはまた改めて書きます。

コラム:分類の快感と、その先の可能性

ひとたびネットで何かを見つけようとすれば、Youtubeでもニコニコ動画でも、このブログにおいてさえも「カテゴリー」「タグ」が現れる。カテゴリーもタグも、対象となる記事や映像や音声を分類するために付けられたメタ情報で、ここには主に「水嶋ヒロ」とか「銀座」とか「新幹線」といった固有名詞が入る。

そこから少し広がると、固有名詞だけではなくて対象物の内容をあらわす情報が入ってくる。ニコ動でよく見られる「才能の無駄使い」「作者は病気」なんかのように。こうなると仕分け作業をする人の主観もだいぶ混ざってくるんだけど、実際にそうやって分類されたコンテンツを端から見ていくと、「ああ、確かに」とうなづいてしまう。

「カテゴリー」と「タグ」はそれぞれ違った分類方法で、重複することも多々あるけれども役割としては別の方向を向いている。以前にこのブログを始めた時に「カテゴリーとタグの違いってなんだよ!!」と疑問を抱いたことがあったけど、その後の運用方法としてはそれほど間違ってはいなかったようです。Wikipediaを見ると、とても理解しやすかった。

分類学(タクソノミー)-Wikipedia

フォークソノミー-Wikipedia

誰の目にも明らかな、正確な階層構造による分類であるタクソノミー(カテゴリー)と、ユーザーの主観、印象、勘違いまでも含んだ、絶対的な階層に捉われない「ゆるい」分類であるフォークソノミー(タグ)と。僕がイメージした分類はかなりフォークソノミーに寄っていたので、ここからは「タグ付け」についてもう少し考えてみる。

タギングすることはそれ自体がひとつの快感だ。離れた対象物AとBの間に共通点を見つけると嬉しくなる。新しい視点が生まれる。知り合いの家に遊びに行った時、そこにある服、家具、本、CDなどがまったく別のメディアであるにも関わらず、どこかしら人それぞれの統一感を持って部屋に存在しているのは、住人が知らず知らずのうちに審美眼をはたらかせて「自分タグ」に合致するなにかを日々選んでいるからなんだろう。

 さらに一歩進むと、タグ付けという行為の中にも「斬新な分類」と「ありふれた(=既知の)分類」がある。これは分類というか命名というか。斬新なタグ付けはそれ自体が注目を集める。斬新であり、なお多くの人の共感を得ることができれば、それはひとつのジャンルとしてムーブメントを生む。過去に創造された作品はこの新しいタグの観点のもとにもう一度見直されるし、表現者はこのジャンルの文脈に適合するように新しい作品を作るようになる。このへんは矛盾だらけで面白い。現代美術もポストロックも関係してくる。ジャンルはいつもあとから発見されるものであり、何もないところに概念として先に生まれるものではない。アンドレ・ブルトンがシュールレアリズムを宣言する前からシュールレアリストはいたし、縄文時代にだって草食系男子はいたと思う。

で、こんなことを考えていると、タグ付けはそれ自体がひとつの表現であると思えてきた。

自分が独自に付けた、ものすごく主観的でマニアックなタグがあるとする。どんなに曖昧な分類でもいい。たとえば、「色が鮮やかでキラキラしてるもの」というタグ付けを始める。このタグが付けられるものには鉱物写真やスワロフスキーのアクセサリー、カラーセロファンやビーズ(B’zではありません。念のため。)、カワセミやハッブル宇宙望遠鏡が撮影した天体、小林幸子などが含まれる。このタグを付けられた一群は目で見て判断できる分、まだ客観性があるけど、それぞれのコンテンツが属する世界はもうかなり離れている。

もうちょい曖昧なのだと…「壊れそうなもの」というタグならばどうだろう。光GENJIの歌に出てくる、10代がよく集めてしまう、あれ。この定義はだいぶグレーゾーンが広い。画面にひびが入った携帯電話や爆破寸前のビル、腐りかけの(なにわ小吉の言葉によれば『本領発揮している』)野菜、精神がぐらぐらする類のダメージを受けそうな映画、絵画、音楽、小説、パブリック・イメージであれば太宰治やカート・コバーン、もっと挑発的になれば自民党、エイベックスなど。こうなればタグ付けをする人それぞれの印象に依存する部分がだいぶ大きくなる。なので分類としての正確さはなくなっていくけど、このタグのもとに集められたものをひとつのページにまとめたら、全体として一貫した「壊れそうなもの」が発する独特の雰囲気や切なさ、面白さをある程度は感じることができるんじゃないでしょうか。けっこうインパクトのある眺めだろうし。

メディアを問わない「壊れそうなもの好き」の人は、そんなに少なくないと思う。あくまで希望的な発展のしかただけど、そういう人がページを発見して10人でも3人でも共感してくれれば、そこには手頃なカタルシスを渇望するネットワークができて、そのタグを共有することで自分が得たい情報へのルートが一気に広がる。単純に、そのタグを付けられたブックマークが10件から30件、100件になる。もしくは、「そうか!俺が今まで何ともいえない魅力を感じていたものは、すべて『壊れそうなもの』だったのか!」ということに気が付くかもしれない。

まあ、そういう対外的な可能性を考えなくても、自分が好きなものを分類してまとめるのはやっぱり面白いし、人がまとめたものを見るのも面白い。ネットが普及するまでは大変な労力が必要だった「図鑑を作る・発表する」行為が、時間もお金もかけずにできるんだから、いろいろと試してみたくなる。

と、いうわけで。今度からこのブログ内で、勝手に分類したものをずらずらと並べていくコラム「面白さの定義」シリーズをやってみようと思います。どこまでも主観的な分類で、なおかつ僕が知っている範囲はまだまだ恥ずかしいくらい狭いので、実用的な資料や教養にはまずならないと思いますが。これはブログを始めるにあたって試してみたかったことのひとつなのです。

以上、今日はなんだかどえらい長い文章になってしまいました。。

 

 

※追記01.

書いたものを改めて見直してみると、「あれ、なんかごく当たり前のことを回りくどく言っているだけじゃないのか?ちょっとイタくね?」という疑念に襲われました(笑)要は最後の5行を言いたいがための序文です。だけどこの記事を書いている時間の中で、頭を巡っていたいろいろなことがようやく整理できた。

※追記02.

「タグを提案する、その例を集める」ということを一番効果的に、日常的にやっているのは、実はラジオ番組なんじゃないかと思う。

※追記03.

こういうちょっと長めの雑記に「コラム」タグを付けて、これから増やしていくつもりです。ほぼ日が「今日のダーリン」と「ダーリンコラム」を分けているみたいに。

※追記04.

「曖昧なタグ」が発展しているのはニコ動よりむしろmixiのコミュニティかもしれない。

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